昭和56年8月7日 朝の御理解 【 末永信太郎 】
御神訓一 縁談に相性を改め見合すより、真の心を見合わせよ
この御教えは縁談の事についての御教えですけれども、真の心を見合わせよとあります。その真の心というのを、信心の信と表現してあります。信心の信という字を一字書いて、真とこう。真の心とはどういう心であろうか。ね、だから縁談に関わるという事ではございます。その真の心という事を、今日は少し頂いて見たいと思います。昨日、私ここ下がらせて頂いて、すぐ、まあ、お風呂を頂くんですが。
お風呂から上がりましたら、もう体がきつくて、きつくて、もう手を上げる事もきついごとある、食事も喉ん通らんという状態でしたから。これは、今夜ゆっくりとご飯を頂くから、おにぎりでも良いから作っておいてくれと言うて、私はもう休みました。で、夕べ12時ごろ目を覚まさせて頂きましたら、あの、机の上におにぎりが作ってあります。それから、また、12時頃から夕食を、まあ、頂いた訳ですが。
小さいおにぎりが五つ作ってあった。で、私だいたい冷たいご飯にあの、ウニをつけて頂くのが好きなんです。あの、ウニというのは、皆は熱いご飯につけて頂くけど、あれは嘘です。あれは、アルコールの臭いがプンプンしてね、駄目ですよ。もう、冷たいご飯にかけてごらんなさい。とても美味しいです、ウニの味が。私はもう必ず冷たいご飯にウニをつけて頂くんです。
はっは、それで私は、あの、もうおにぎりですから、冷たくなってますから。ウニを出しといてくれて言えりゃ良かったのになあと、こう思うた。奈良漬けだけが、お漬物だけが出してあった。ほれで、おにぎりを頂き出しましたら、もうお腹もいいいかげんに空いておりますから美味しい。そして、中にウニが入れてあった。私が、そのおにぎりを見た時、冷たいご飯にね。冷たいご飯にウニをつけて頂くのが美味しい。ウニを出しておいてくれたらなあと、こう思うたら、もうすでに中にウニが入れて握ってあった。
途端にそれから有り難うなってから、もう有り難い、有り難いでいつ頂いてしまったか分からんくらいに五つのこう、おにぎりを頂いてしまった。私、その、私が座らせてもらう前に、(飾り止め?)がこう置いてあります。飾り止め?がちょうど私の目の行くところに、もう2千年も前のお水がそのまま入っておるという、補綴和尚の(瑪瑙?目の尾?)で作ったのが置いてあります。二千年前のお水がそのお腹の中に入っておると。そのまま、こう、取ってあるんです。
真中には、真の皇帝が使ったと言われておる小さいシナの坪が。その横には、玉の高楼が置いてある。毎日、毎日こう眺めさせて頂いておるのですけれども。昨日は、それが非常に高貴な物に、尊い物に、有り難い物に見えてきた。それだけではない、もうそこら一面、一体が有り難い物に見えて来た。本当に毎日、毎日眺めておる、まあ、ところでございますけれども。
その、人間の心の中に有り難いという心が湧いて参りますと、すべてが有り難うなって来るという事ですね。ね。見る物もね、それは、何も感じなかった物の中にでも、非常に尊い物、有り難い物として見えて来た。ね。言うならば、本当の、心という事をここでは信の心と。信心の信の心と書いて、真の心とある。
だから、信心させて頂いて、私どもが見る物、聞く物、有り難いなあと、こう見えるようなその心そのものが真の心と言うのではなかろうかと思います。ね。ただ、普通の真と、ごんべんに成るという字を書いたり、ね、こう、信という字を、じゃないです。ここでは、信心の信という字を、真と読ませてあります。真の心とは。ね、私が昨夜そのおにぎりを頂きながら感じた有り難い心。そこにある周囲のすべての物が有り難い物に、尊い物に見えてくる。
ね、縁談、信の心を見合わせる。ね。例えば、そこにすべてが良い物に見えたり、聞こえたりして来るならば、素晴らしい縁談になる事でしょう。それが結婚という事になっても、なら素晴らしい成果を収める事でしょう。昨日は、毎日今、日参、朝参りをなさいます石田先生達御夫婦が、昨日の朝の御理解、ここのお届けである、まあ、言うなら御風夫婦の深刻な心の内を、もうそれこそ吐露してのお届けであった。
それは、親が子を思う情念というものは誰でも同じですけれども。話を聞けば聞くほどに、特別に心を使わなければならないような事情があった。お子達3人の、お子達の事を、もう、自分の心に掛かっておるすべての悩みとか心配を、ここにお届けになっておられましたら、私の心、心眼に頂くのがね、こう、両手を合掌しておるところを頂いた。しかも、ただ両手を合掌しておる、その手に御理解を頂くのが、この親指と親指がこうやって一緒になっておるね、ついてる訳。
そして、この親と親の心がこうやってピッタリ合っておる限り、次の四つのこれも間違いなくついて拝んだ姿になるという御理解であった。ね。ご両親で今、熱心に合楽にこう傾倒しつつあられる訳。信心の道が少し分かって見えられた。ね。それで、なら、心の悩みと言うか、心の心配と言うか、それを、そのお届けをなさった。ご夫婦が一心に真の信心をなさってお出でさえおれば、あなた方ご夫婦の信心がこうやって、ね、合掌した時に親指と親指がこう合います。親指と親指が合うてさえおれば、子供達も合わんはずはない。
親と、親指がこうやって離れとると、こんな風に違い違いに子供達もなって来る訳なんですよね。私はこれを頂いてから、はあ、先生はもう、あなた方の御信心が出来てさえおりゃ、もうその心の内の心配は、もう無用ですよ、いりませんよと言うて、お話をした事でした。ね。私どもが、信心をする。ね。子供の事は、親の。子供の病気は親の病気とさえ言われるのですから、その子供の事を気にかけたり、心配しないという親はおりますまい。
そんならば、その両親が心合わせて、神様へ心を向かうてさえ行けば、これは間違いない合掌の姿になるんだよという事です。これは、石田先生達だけの事ではないと、こう思う。私はその、真の心というのは、そういう事であり、そういう心だと思うのです。そういう事から、真の心が出けて来るのです。今まで心配であった、今まで不安であった子供達の事が、段々この神様におすがりしておけばという、安らぎも安心も、言うならば喜びも頂けて来る事でしょう。
その心を、私は真の心とここでは教えておられるのではないかという風に思います。真の心という字は、信心の信の心と書いてあります。ね。その有り難いという心。その心、その心でおります時に、すべての物が尊い物、有り難い物という風に、こう見えてくる。今まで気がつかなかった、今まで何とも思わなかった事の中に、その、美を発見するというか、有り難い物を探求して行く事が出ける。
ね、いわゆる真の心というものを、私どもは求めての日々でなからなきゃならない。だから、見るも、見方が変わり、聞き方も変わってくる。感じ方が変わってくる。それは、言うならば幸せになる手立てとでも、まあ、申しましょうか。ね。物の見方、考え方が有り難い方へ、有り難い方へ変わって来る。そういう心を信の心、真の心という風に、今日は私は感じました。どうぞ。